🕊️ 前回のお話:第15話「ノートの隅に灯をともす」
ページの端に、日付だけの走り書きがあった。
それを見た瞬間、胸の奥がふっと揺れた。
——たしかに“書こうとした何か”が、そこにあった。
けれど思い出そうとすると、指のあいだから静かにこぼれていく。
触れられそうな近さなのに、霧みたいに遠い。
それでも、その日付だけが小さな灯のようで、
あの日の空気がほんの少しだけ胸の奥でよみがえる。
ストーブの前で丸くなっていたオペラが、こちらを見上げた。
その一瞬——忘れていたはずの風景が、静かに息を吹き返していく気がした。
小さな記憶がひらくとき
日付を見つめながら、ゆっくり深呼吸した。
たぶん、その日は急いでいて、
“あとで書こう”と思いながら、結局書けなかったのだろう。
思い返してみれば、そんな日がいくつもある。
コーヒーを淹れながら、
「なんだったかな」と記憶の断片を追いかける。
すると、ふいに浮かんだのは——
オペラが初めて、新居の廊下を駆け回った日のことだった。
小さな足音が廊下にリズムを刻み、
光に向かって走っていったかと思えば、急に方向転換して、
全力でこちらに突っ込んでくる。
途中で足を滑らせて、氷の上みたいにツルッと滑り、
半回転して背中から落ちたこともあった。
あの日のオペラは、まるで
「え、今の見た?」
とでも言いたげな顔をしていた。
思い出すというより、“ほどけていく”。
そんな感覚に近かった。
手触りのある記憶
コーヒーの湯気を眺めながら、
日付を書いたときの気持ちをそっとなぞる。
冬の入口の空気だった。
リビングに射し込む光は薄く、
オペラが毛布を整える音が、小さく部屋に響いていた。
「そうだ、あの日は……」
小さな出来事がひとつ、またひとつ形を取り戻す。
オペラが窓辺の影に驚いて、
“誰だこいつ!”と言わんばかりに構えていたこと。
ストーブの前で丸くなりすぎて、
湯たんぽみたいにほかほかになっていたこと。
日々の端っこに落ちていた、それだけの光景。
だけど、“書きたくなる”ほど愛おしかったのだ。
書けなかった「あの日」と、書けている「今日」
ノートを開いて、走り書きの続きを見つめる。
“日付だけ”という余白が、なんだか自分の性格みたいで、
思わず小さく笑ってしまった。
「で、俺は何を書こうとしたんだっけ?」
自分にツッコミを入れながら、
ページの下に今日の一行を書き加える。
曖昧な記憶でも、たどっていけば、
そこにはたしかな温度があった。
書けなかった日も、
こうして書き留める今日も、
どちらも同じひとつの日常だ。
ストーブの前で伸びをしたオペラが、
「そろそろ抱っこ?」と言いたげにこちらへ歩いてくる。
その姿を見て、ようやく理解した。
——あの日書きたかったのは、
きっと“こういう瞬間”だったのだ。
あとがき
記録できなかった日にも、
小さな灯はたしかに存在している。思い出せた今日もまた、
ひとつの物語になったような気がした。

