🕊️ 前回のお話:第6話「オペラ、風の中で」
朝の光がまだ淡い時間だった。
オペラをペットスリングに入れて、外の空気を吸いに行こうと思った。
小一時間ほどのゆとりがある朝。
ただ、それだけのつもりだった。
でも、その「つもり」が、ほんの数秒のうちに崩れた。
スリングからオペラが飛び出したのだ。
何かを見たのか、感じたのか――気づいたときには、もう空中にいた。
小さな体が、まるでスローモーションのように落ちていく。
フローリングの床に、額から落ちた。
「コトン」という乾いた音が響いた瞬間、空気が止まった気がした。
落ちた瞬間
オペラは痛さと驚きの混ざった声をあげた。
助けを求めるような目で、僕を見つめていた。
ほんの一瞬の出来事だったのに、その数秒が永遠のように長かった。
スリングから飛び出してしまったのは、完全なる僕の不注意だった。
まさか――そう思った。
けれど、まさかが現実になった。
オペラの小さな体は震え、
その足元には、驚きと恐怖の名残のように小さな跡が残っていた。
あの瞬間の空気の重さを、今でも思い出せる。
抱きしめるという行為
反射的に抱き上げた。
オペラの体は軽い。けれど、その軽さの中に確かな鼓動があった。
震えながらも、確かに生きている。
その瞬間、頭のどこかで“もし”という言葉がよぎった。
もし、この子を失ってしまったら――。
死ぬかもしれない、と思った。
でも同時に、強く思った。
この命を、僕が守らなければ。
あらためて、オペラの命を守る覚悟ができたのです。
病院までの時間
早朝のことだった。妻は前の住居にいて、この日は僕ひとり。
とりあえず、妻にLINEを送った。
起きているかどうかも分からず、ただ、何かをしていないと不安だった。
メッセージを送信してからの一時間が、やけに長かった。
オペラは腕の中で静かにしていたけれど、その静けさが逆に怖かった。
“このまま動かなくなったらどうしよう”
“呼吸が止まったら”――そんな考えが、何度も頭をよぎった。
一時間ほど経って、妻から返信が届いた。
「#7119 に電話してみて」
その一文に背中を押されるように、番号を押した。
電話口のスタッフさんは、落ち着いた声で言った。
「とりあえず大丈夫だと思いますが、念のため動物病院を受診してください」
その言葉を聞いて、少しだけ呼吸が戻った。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえていた。
オペラは落ち着いて見えたが、頭のどこかで“内出血”という言葉が離れなかった。
それでも、今やるべきことはひとつ――病院へ行くことだった。

自宅のケージで静かに休むオペラ。
車のドアを開ける音が、やけに大きく響いた。
オペラをクレートに入れる。
彼女はクレートが嫌いで、不安そうな顔をしていた。
「大丈夫だよ」と声をかけながら、そっとドアを閉めた。
フォレスターのエンジンをかける。
その低い音が、いつもより頼もしく聞こえた。
できるだけ横揺れしないように、慎重にアクセルを踏む。
動物病院までの十五分が、とても長かった。
信号が赤になるたび、胸の鼓動が速くなる。
窓の外の光は穏やかだったのに、
心の中は嵐のようだった。
レントゲン室の光
診察室の白い光の下、
獣医の手がオペラをやさしく撫でながら、体を確かめていく。
問診、触診、そしてレントゲン。
その一つひとつの動作を、息を止めて見ていた。
光が、小さな体を透かしていく。
冷たい空気の中で、時間がゆっくり流れていく。
やがて、獣医が静かに言った。
「骨も内臓も大丈夫そうです。数日は安静にしてあげてください。」
その瞬間、肩の力が抜けた。
息をすることを、ようやく思い出した。
外の光が、少しだけやわらかくなっていた。
オペラはキャリーの中で小さく眠っていた。
胸がゆっくり上下している。
生きている。
ただそれだけの事実に、涙が滲んだ。
フォレスターのハンドルを握りながら、
僕は静かに心の中で繰り返していた。
「守る」って、きっとこういうことなんだ、と。
あとがき
あの日フォレスターが走り出して、
風の中でオペラと出会い、
そして今、抱きしめる温度を知った。命に「小さい」も「大きい」もない。
その日から、僕はオペラを撫でるたびに思う。
“守る”というのは、特別な行為ではなく、
毎日の中で静かに積み重ねていくことなのだと。朝の風、コーヒーの香り、寄り添う寝息。
そのどれもが、かけがえのない証。今日も風が、そっとカーテンを揺らしている。
その音の向こうで、オペラの寝息が聞こえる。
それだけで、充分だと思えた。

