🕊️ 前回のお話:第42話「未来を急がない練習」
最近、どうにも時間が作れなくて、
コーヒー豆探しができていない。
焙煎所を巡って、香りを確かめて、
今日はどれにしようかと迷う。
そんな時間が、今の生活にはうまく収まらない。
これじゃない感のある一杯
結果、スーパーで売っている豆を買って、
自分のミルで挽いて、
浸潤式のドリッパーでコーヒーを淹れている。
誤解のないように言っておくと、
スーパーのコーヒー豆が悪いわけじゃない。
むしろ、十分においしい。
ただ、自分のこだわりが強すぎるあまり、
どうしても
「これじゃない感」
が残ってしまうだけだ。
焙煎所の豆が恋しくなる理由
焙煎所でしか手に入らない豆を好んで飲んできたのが、
今になって仇になっている感じもする。
特に好きなのは、ハニー製法の豆。
あの独特の甘みと、
どこか丸みのある後味がたまらなく好きで、
見つけると、つい手に取ってしまう。
コメダでも、星野珈琲でも、
いわゆるコーヒーチェーンでは、
まず出会えないタイプの豆だ。
味の記憶は、いつから始まったのか
ハニー製法の豆に、
最初に出会ったのがいつだったのかは、
正直、もう覚えていない。
でも、
「一番おいしかったコーヒーは?」
と聞かれたら、
なぜかすぐに思い浮かぶ一杯がある。
19歳の頃、バイト先で知り合った、
年上の女性が淹れてくれたコーヒーだ。
名前を付けない時間
その人の家は、
小さな喫茶店を営んでいて、
コーヒーが日常にある環境だった。
当時、
付き合っていたのか、
そうでなかったのか。
今となっては、どちらだったのかも曖昧だ。
美術館に行ったり、
バイト先から家の近くまで送ってもらったり、
一緒に飲みに行ったり。
名前を付けるほどでもないけれど、
確かに、
近くにあった時間。
淹れ方が残したもの
その人が遠方に引っ越すタイミングで、
その関係は、自然と切れてしまった。
今でも思う。
その人が僕に与えた影響は、
計り知れなかったのだと。
コーヒーの味そのものというより、
「丁寧に淹れる」という姿勢。
「味を楽しむ」という感覚。
それを、
あの時間ごと、
身体に染み込ませてもらった気がしている。
戻れない時間と、今の一杯
今、
スーパーの豆で淹れたコーヒーを飲みながら、
そんなことを思い出す。
これじゃない感の正体は、
豆の違いじゃない。
きっと、
もう戻れない時間を、
無意識に探しているだけなんだと思う。
それでも、悪くない
だからといって、
今のコーヒーが嫌いなわけでもない。
今は今で、
ちゃんと自分の手で挽いて、
ちゃんと淹れて、
ちゃんと味わっている。
過去の一杯を、
超える必要なんて、
本当はないのかもしれない。
あとがき
思い出は、思い出のままでいい。
ハニー製法の豆に、
また出会える日が来たら、
それはそれで嬉しい。来なければ、
それもまた、今の暮らしだ。コーヒーを飲み終えて、
ふと顔を上げると、
オペラがこちらを見ている。今は、
この時間を大事にしよう。そう思えるくらいには、
今の一杯も、
悪くない。

