🕊️ 前回のお話:第147話「どうでもいいけど、桜のことを考えている」
若いころ、よく言われた言葉がある。
「普通ってなんだ?」
「みんなって誰だ?」
昭和の頃、耳に胼胝ができるくらい聞いた気がする。
「普通」と「みんな」
小学校の頃は、自分も「普通はさ」とか「普通はこうだよね」と、わりと普通に使っていた気がする。
ただ、「みんなが言っている」という言葉には、少し引っかかりがあった。
例えばクラス全員が言っているなら「みんな」でいいけれど、そうでなければ「クラスの半分くらい」とか「何人かが言っている」というほうがしっくりくる。
今思えば、少し面倒くさい子どもだったのかもしれない。
そして中学生になって、担任の先生に「普通って何だ?」と問われたとき、改めて考えさせられた記憶がある。
それまで当たり前のように使っていた言葉が、急にあやふやなものに見えてきた。
さらに遡ると、もっとそれらしい出来事もある。
幼稚園の入園テストで、色の問題が出たらしい。
白、銀、青、赤の折り紙があって、「白い折り紙はどれですか?」と聞かれたとき、自分は銀色の折り紙をひっくり返して、「これが白い折り紙」と答えたそうだ。
表が銀でも、裏は白い。
そう考えたらしい。
天邪鬼なのか、ひねくれているのか、それとも単に視点が違っただけなのか。
今となってはよくわからないけれど、なんとなく自分らしい気もしている。
こうして振り返ってみると、「普通」とか「みんな」という言葉に対して、昔からどこか引っかかるものがあったのかもしれない。
では、平成や令和になって、この手の言葉はどうなったのだろうか。
少なくとも、自分の周りでは、昔ほど露骨に聞くことは減った気がする。
価値観が多様化したとか、個人を尊重する時代になったとか、いろいろ理由はあるのだろう。
ただ、「普通」という言葉そのものが消えたわけではない。
むしろ、形を変えて残っているような気もする。
例えば、「一般的には」とか「普通はこうだよね」といった言い回し。
直接的ではないけれど、どこか同じ匂いがする。
そして、自分自身も、気づかないうちにその言葉を使っていることがある。
誰かに対してではなくても、自分の中で。
「これは普通なのか?」
「自分はズレていないか?」
そんなふうに、無意識に基準を探している。
結局のところ、人は「普通」というものを完全に手放すことはできないのかもしれない。
安心するための目安として、どこかに置いておきたいのだと思う。
ただ、その「普通」が本当に誰のものなのかと考えると、やっぱりよくわからない。
あとがき
昔はよく言われていた言葉なのに、今はあまり聞かなくなった気がする。
それでも、その感覚自体は、どこかに残っている。
言葉は変わっても、中身はそれほど変わっていないのかもしれない。
そう考えると、「普通ってなんだ?」という問いは、今でもどこかで続いているのだと思う。

